全国の皆さん こんにちは!!
台風の影響はいかがでしょうか。関東の水瓶はこれで一安心ですが、被害が出てるようです。十分気をつけてください。
今年もあとカレンダーが2枚となりました。1年は早いです。まだ振り返るには早いですが、どんな1年でしたでしょうか、、、?
仏教入門シリーズも今回で終わりですが、思想、伝統、宗門の開祖の人間像をあえて述べてみました。まとめは次回にしますが
今回は江戸期の禅宗に改革を促し日本文化に新風を吹き込んだ「黄檗宗」を取り上げました。
黄檗宗は1654年に隠元禅師が中国(明代末〜清代初期)から日本に招かれて、当時の主流であった臨済禅の教えを日本で布教して広めました、また同時に、食や芸術など明風の文化ももたらした功績は大きく、中国明代には臨済宗の中に浄土信仰を取り入れた禅が広く行われるようになってました。南無阿弥陀仏を唱え、極楽往生を念じる浄土信仰はすでに日本にはねずいており、そこに坐禅が加わり、これに隠元が説く「参禅は、一人が万人と敵するものだ、賊の陣中に入って賊首を取るものだ」と説いており、これが当時の武士層に受け入れられていきました。江戸時代は幕府の仏教支配体制により国教化が確立されていき、幕府はキリシタンや日蓮宗不受不施派を禁制とし、その信徒に対して、改宗を強制し、これにより仏教の壇信徒であることを寺院が証明する寺請制度を制定しこれにより、民衆はいずれかの寺院を菩提と定めて、その檀家となることを義務付けられました。住民の信仰の状況は宗門人別改帳により台帳化され、戸籍の元になってます。神道にはこのような制度はなく、日本人なら必ず過去帳があり、必ず、先祖がわかります。これが元になり、寺請制度、檀家制度により、宗門、僧侶は信者を獲得する必要がなくなり、葬式と法事を主な仕事とする葬式仏教の担い手になって行きました。今のお寺の様式制度は500年ぐらい前に確立されてます。徳川幕府は仏教を国教にして人民を統治してます。明治維新のときに廃仏毀釈がなければ、皆さんのルーツはほぼわかりました。ですがこのときは、殿様、侍、武士、公家、貴族も平民になりました。
仏教の変わりに新政府は神道を重んじていきました。元来は神仏習合で区別をしてないのが日本でしたが、これにより、新時代の幕開けとなりました。江戸時代は結構お寺には厳しくあたったようで、「寺院諸法度」があり、さまざまな僧、宗門の特権を管理されたようです。このような硬直化した仏教組織に、長崎にいる中国人達が
隠元禅師を中国から日本に呼んでます。中国の臨済宗と日本の臨済宗の禅風が異なり、新しい禅宗として黄檗宗の開祖となりました。新しい禅法が伝わり、臨済宗、曹洞宗を問わず、全国から数十名の禅僧が集まり教義を学んでます。特に念仏を唱える坐禅には驚いたことでしょう。純禅たる臨済宗の僧侶からは嫌われて妙心寺にさえ入れず、猛反対を受けてますが、徳川家綱は隠元を認め、京都に一寺の建立を認め、宇治の黄檗山萬福寺の創建となり、この工事は老中の酒井忠勝が推進し、工費も寄進してます。幕府を始め多くの大名が帰依してますし、後水尾上皇も隠元を崇拝してます。隠元は日本で臨済宗を名のりましたが、これを臨済宗は良しとしなかったために、断念して、黄檗宗としました。萬福寺は中国の明時代の伝統、文化を強く残してます。黄檗宗は日本の禅宗各派に深い影響を与え、禅の原点回帰を促す運動の契機となりました。良寛、円空、木喰などは子供の純真な心こそが仏の心と理解して、子供達とよく遊び、質素な生活を送り、庶民にわかりやすい法話をして理解を得てたそうです。日本の仏教は、中国から文化学問思想として輸入されて、独自に花開き、最後も中国から隠元が来て、新しい臨済宗を開いたというのは、偶然とは思えません。仏の意思が働いたものでしょう。
皆様におかれましては、異論、反論も多くあると思いますが、仏教が日本人に与えた思想、文化は大きいものがあったと思います。
ブッダも最澄、空海、法然も実は我々と同じく、煩悩を持った人間であったことです。そこから人生の悟りにいたる、苦行、修業、自己との戦い、を経てきてます。
我々も同じくすべからく、仏性を有してます。自分に合う宗門を選ばれて、少しでも現世での苦難が少なくなり、和楽を感じながら、人生が送れて、感謝と報恩を忘れずに、生きていかれたら最高です。
次回は、仏教と日本の文化の融合を寄り道ですが、述べてみたいと思います。
顕空 南無大師遍照金剛 合掌礼拝。
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