全国の皆さん こんにちは!!
ようやく、両目が開眼しました。本日最終検査です。くっきり、はっきり、鮮明に見えます。視力は改めて大切です。痛感してます。
本日は、自民党の党首選です。白熱してます。原発や経済、デフレ、貿易赤字、円高、触れてくれてません。
いよいよ国際金融ではリボー問題が火を噴きそうです。アメリカの銀行が訴訟を起こしました、相手は日本の3大メガバンクです。天文学的な損害賠償を請求されそうです。シャープはリセットですね。ガソリンの値上がりも凄いです。尖閣も竹島も日本に国家と領土と防衛を求めてきてます。熱いです。国家防衛という思想が戦後67年でなくなったのかもしれません。改めて、日本国家を考えてしまいます。頑張れ日本です。
さて、禅とは何か、を考えてみたいと思います。経典よりも「坐禅」を重視する宗派(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)の教えを見て行きたいと思います。
坐禅のみのを突き詰めて、ついに仏性を得た達磨大師を開祖とするのが、いわゆる「禅宗」であります。日本の仏教各宗派において、坐禅が大切な修行法であります。しかし、禅宗における坐禅はまったく意味合いが異なります。経典や教義を用いず、何百年も受け継がれてきた「禅の教え」とはどのようなもだったのでしょうか。
古代インドの発祥の「禅」は現代の日本から世界に伝播してます。坐禅といえば精神統一をすることに適してることから、海外では良いようです。紀元前5世紀、釈尊は苦行の末に菩提樹のもとで坐禅しながら悟りを開きました。坐禅による黙想で悟りを得たことが「禅」のルーツです。釈尊の悟りは、人間を含めて万物は固定されたものはなく、一切が「空」である。それを知ることで、苦の原因となる欲望から解き放たれるというののです。この「悟り」の境地に達するために壁に向かって9年間、坐禅したのが達磨大師(菩提達磨)です。達磨は5世紀末頃、インドから中国にわたり、嵩山少林寺で面壁9年といわれる修行をとうして、座禅による禅法を中国に伝えました。それ以来中国では膳が広がり、唐代から宋代に掛けて臨済宗・曹洞宗・黄檗宗など日本では五家妃七宗になり数多くの宗派が成立してます。
各論は次回にしますが、インドから中国にわたり、そして日本にも653年に入ってきて現在では「ZEN」として世界に発信してます。禅のある程度まで行くと、無我にすぐなれて、自分の心の宇宙をトリップでき、気を練ることが出来るようです。坐禅して半眼にて呼吸を鼻から空気を吸い、ゆっくりと息を口から吐いていきます。時間も、我もない空間です。ちなみに茶道はこの禅により発展していきました。宇治茶は有名です。
中国嵩山の少林寺で「面壁9年」といわれる坐禅を貫いた達磨は、経典や教義によらずに、ただ坐禅によって悟りを得ることを信条としました。何故、坐禅で悟りを得ることが出来るのか、、、。それは坐禅によって、静かに自分の心を見つめなおし、それまで持っていた欲望や雑念、あるいは社会的な常識のとらわれから離れて、「一切が無である」という仏法の真理に達することが出来るからです。人や万物、あるいは現象に普遍的なものはなく、すべてが変化し生成するものであり、固定されたもの、絶対的なものはない。この真理をつかむことが「悟り」でもあります。自分の心をよく凝視して、その心に内在する純粋な本心・本性に徹する。そこから心の本質にある、仏になることが出来る「仏性」を徹見することで、迷いや妄想を拭い去り、真理を悟って仏になる。それは文字や言葉によらず、仏の教えや仏の心を、心から心へと伝える。達磨に入門を断れた慧可が肘を切断して求道の意志を示した逸話は禅の以心伝心を表してます。
達磨の四聖句1)直指人心 2)見性成仏 3)不立文字=悟りは文字や言葉によって表現できるものではない、理解できるというものではない。さまざまな実践をとうして自分で見つけていくものだ。4)教化別伝
何故、座るのかといえば、行(歩く)住(立ち止まり)臥(横になる)坐(座る)とそれぞれありますが、最も精神が集中できるのが坐です。すわり、気を精神をおへそあたりに(丹前)集めて、静かに、内なる心に問いかけていくうちに、無我になれます。手も法界定印、足は結かふざ。そして呼吸です。
次回は栄西・臨済宗をUPします。
顕空 南無大師遍照金剛 合掌礼拝
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