全国の皆さん こんにちは!!
天候がほぼ秋に向けて動いてます。
寒さ暑さも彼岸までですが、古の人は天候とともに自然に生活を楽しんだのかもしれません。
政治は乱戦ムードです。経済はブルガリアのEU脱会がありそうです。
アメリカは「強い」アメリカが復活です。多分イスラエルとイランとの関係もあるのでしょう
日本は家庭での可処分所得をあげないと、デフレ、GDPは下がり続けていくでしょう。
その中で、あまりお金がかからないのが、登山とハイキングです。自然界と共に営むのはいかがでしょう。
さて法然(1132年〜1212年)は浄土宗を開祖しました。法然は大変な苦労人で、幼少期に肉親殺害をめにしてます。
心から慕ってた父親が(漆間時国)が敵の刃に倒れるのを目のあたりにしてます。法然はこれがトラウマとなり以後の人生に深い影響を与えてます。
生涯を掛けてこのトラウマと闘い乗り越えるのはドラマでした。その必死の努力の中で、人間は個人的な救いが出来ることの発見をします。これが日本仏教の流れを大きく変えて行く画期的思想を紡ぎました。人間的資質の遺憾にとらわれず、誰もが平等に救われる専修念仏を提唱したことです。平安仏教では、寺院への高額な寄付や厳しい戒律の保持が救済の絶対条件とされてましたが、法然はそれらはすべて無効とし、個人の信仰心だけを救われるための唯一の必要十分条件としました。当時はごく一部の人間にだけにしか開かれていなかった仏教の門戸が一気に全開となりました。「賢い人は賢いまま、愚かな人は愚かなまま、思いやりのある人は思いやりのあるまま、心の曲がった人は曲がったまま、念仏すればいいだけだ。阿弥陀仏は、そういう私達を救うと誓われのだから」。法然は平安仏教のメッカだった比叡山延暦寺で30年という歳月を経て万巻の書(経)を読み、自分なりの瞑想に携わりました。それは1日に七万遍という意識集中的な念仏に没頭することで、極楽浄土の光景を段階的に幻想するという「定善観」で、誰にでも理解できて、実践も出来る専修念仏という形で表現してます。すべての人が往生できる方法が専修念仏の教えを確信してます。平安時代末期になると、仏教が衰えて末法の時代になると貴族、武士、庶民に広く広がりました。日本は1052年に末法入りとされてます。
この世の終わりを感じ取ってます。それで、阿弥陀仏を信じてそれにすがり死後極楽浄土に生まれて悟りを得ようとする浄土信仰が爆発的に広まりました。
それには原因があります。平安仏教が権力側と癒着することで強大な経済力(奈良の興福寺などは今日の奈良全域を寺領としてました)平安仏教寺院が世俗化し堕落し、信仰の場といえなくなっていた側面も大きく在りました。「誰を信じて信仰すればいいの、、、、・不安でした」この時代の寺院、僧侶は宗教や寺院は信仰や信仰とは無縁に状況で、「世も末といわれてます」。そこで良忍上人や、法然が立ち上がり、新しい宗派を広めていきました(当時では珍しく、天皇の許可は得ずに開いてます)法然がなぜそのような大胆なことをしえたかといえば、彼が門閥の権威に依存することのない、新興階級としての武家の血を引いていたために、すこぶる現実的で、合理的な思考海路を持ち合わせており、崩壊寸前の律令体制の中で混乱極める人々の危機感が新しい思想の出現を可能にしたとも言えます。法然の個人的求道心と時代に要求の合致で、前衛的な宗教思想が誕生して、日本思想史は新たなまくあけです。幕府からは危険思想家と移り、四国の讃岐に流罪になりますが、75歳と高齢でしたが、むしろ、諸所のこだわりがから自由になり、逆に境遇を楽しむまでになって居り、5年後帰洛を許されると、遺言として、「一枚の起請文」をたしなめてます。仏教のどんな経典、知識、を読みえたとしても、何も知らない無知で愚かな人間のように、ひたすら念仏すべき。と説いてます。
次回は法然と知念院の歴史をUPします。後編です。
6日は出張でお休みです。7日から再開です。
顕空 南無大師遍照金剛 合掌礼拝
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