全国の皆さん こんにちは!!
お昼は残暑があり暑いですが、朝夕夜はすっかり、秋めいてきました。爽やかです。
目のほうも順調に回復してます。
この時期は風邪を引きやすく、夏の疲れが出る頃ですから、体を冷やさぬように。
さて、鎌倉仏教も最後となりました。禅宗・曹洞宗・永平寺・道元です。「坐禅のみを追及した「止管打坐」を追求した曹洞宗。
1200年に村上源氏直系貴族の久我家に生まれ、幼少の頃に両親をなくし、無常を感じ12歳で比叡山・天台宗に出家1212年し天台僧になり、そこでの修学の過程でで「すべてのものに仏となる本質があるならなぜ悟りをもとめれて修行するのか、、、、」と疑問を抱き比叡山から下山して臨済宗の栄西の弟子となり、建仁寺で修行をして明全と共に中国の宋に求法のたびに出ます。道元は中国の諸山をめぐりながら、正師となる人物を求めた。そして出会ったのが天童山の如浄です。如浄の禅法は「黙照禅」といわれるもので、ただ黙して坐禅することで仏性をつかむというものです。参禅を重ねているとき、如浄が言った「坐禅は身心脱落なるべし」と聞いて、忽然ととらわれない境地に達しました。そして、坐禅修行と悟りは一体であるとする「修証一如」と坐禅する姿は仏そのものである「即身是仏」として、ひたすら坐れという「只管打坐」の禅法を唱えてます。道元は峻厳な禅法を伝えるために福井の山間に永平寺を開いて弟子の育成に励む。一方「正法眼蔵」全95巻を
著して、禅修業の本質と心得を示した。また食事を料理し、食べることも修行であるとする「典座教訓」なども著してます。道元は、生きることは仏の命を生きることであると説きます。仏と人は一体であるばかりか、草木や風物といった自然も仏の命をいただいている。それを生活の中で自知して悟る。いつどこにいても、仏と共に歩むことである。「仏道を習うことは、自己を習うなり。自己を習うということは、自己を忘れることなり」また、愛のこもった言葉を使えば、愛が広がるという道元の「愛語」となります。
臨済宗の禅法とどこが違うのでしょうか、、、。臨済宗は壁を背にして坐禅し、曹洞宗は壁に向かい坐禅します。曹洞宗は達磨の面壁9年と同じように壁に向かい黙々と坐禅に打ち込み「黙照禅」です。臨済宗のように「公案」「禅問答」「瞑想」とも違い、無心にひたすらに坐禅を組む。これを道元は「只管打坐」とよび、坐禅は悟りを得るための修行ではなく、坐禅そのものが仏性の顕れである、と説いてます。「修証一如」=修行と悟りは一体である。 「即身是仏」=坐禅は悟りの道ではない、人はすでに悟りの中にある。1253年京都で入滅。無念無想で坐禅することが悟りに近づく1歩としてます。臨済宗は止観、真言宗は阿字観とそれぞれ呼んでます。
次回は江戸時代に禅宗と念仏の習合をさせた日本オリジナルの、黄檗宗です・宮本武蔵も学んでます。
仏教の教えは2つで1)解脱=悟り 2)煩悩からの開放ですが、無我無想の境地に達して得られるる精神世界です。
顕空 南無大師遍照金剛 合掌礼賛
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