全国の皆さん こんにちは!!
虫の鳴き声が心地いいです。ヤモリも出てきてます。風情が風鈴、太陽、海、せみ、入道雲から、月、ススキ、せみから、地上でなく虫にバトンタッチです。
政治はなにやら混乱しております。野田総理、谷垣総裁は蚊帳の外ですね。政治は権力闘争といわれますが、これぐらいのエネルギーを東北震災復興、
経済再建にもエネルギーを使って欲しいです。政治は夜から始まるといいますが、昔からの権謀は人を動かすのでしょう。
戦後処理をあいまいにしてきたつけが出てきてます。竹島、尖閣、北方領土、、、、、。ここらではっきりさせて、日本の正当性をPRしないといけないですね。
明るい日本を次世代にバトンタッチさせたいです。本来なら非戦闘員の虐殺(原爆)や捕虜の労役使役(シベリア抑留)は当時の国際法では禁止されてました。
日本ではタブーになりましたが、頑張って欲しいです。頑張れ日本です。
鎌倉仏教は1192年に鎌倉に幕府が置かれてた時代に花開いた仏教を革新して民衆に布教をした開祖があまねく誕生し、活躍をしてます。
歴史的背景は民衆への布教です。「官僧は自由な布教や、死の穢れなどに触れる事を禁じられてましたが、民衆を救済せねばと考える僧侶も出てきます。
民衆はこの時代は葬式ということもなく、ともらうことさえなく、死ねばそのままでした。せいぜい、穴を掘り埋めたぐらいです。
官僧の立場を捨てることで、官僧組織から離脱して民衆に布教し、死者をともらう。そうした僧がどんどん出てきました。(遁世といいます)
良忍始め、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮はいずれも遁世して民衆に入り新たに宗派を興してます。
念仏の誕生です。仏教はその当時は大学にあたり、大変高貴な学問でしたが、これを民衆に広めるには、言葉のシンボル、仏具(仏像、花、数珠、線香等)のシンボルとお経のシンボルが必要でした。その頃の民衆は武士とは違い、読み書きが出来てませんでした。そのためには、簡潔なお経が必要で暗記しやすく、唱えれば、
どんな人でも浄土にいける約束が必要でした。後日述べますが他力本願の普及です。
さて元に戻して、念仏の布教をしたのが(先駆者)良忍上人です。大阪市平野区にある大念仏寺が良忍を開祖(1072年〜1132年)とする融通念仏宗の本山と成ってます。元は念仏道場として大衆に開放してました。1127年、良忍が聖徳太子の夢告に従い、摂津国平野に開いた道場が起源です。
融通念仏の成立は平安末期のことで、当時は公家、摂政、から政治が武士という武家の時代に移行する過渡期にあたり、末法思想が(飢饉、戦で多くの人が死ぬ、
貧困)が世の中を覆うなか、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽浄土に往生して救われるという浄土教が広まりつつありました。そのような時代に比叡山で過酷な修行に従事していた良忍は、ある日阿弥陀如来から、「一人の念仏と、すべての人が唱える念仏とが互いに融合しあって、往生できる」というお告げを受け、集団で念仏を唱和する融通念仏を布教して諸国を回りました。さらに一つの善行がその他すべての善行とも融合しあうことも説きました。(のちの一揆の誕生です)融通念仏では、念仏を共にすする大勢の人々が連帯し、社会に役立つ人間になることを表明としました。良忍の時代を含めて、以降も融通念仏宗は宗派としての形態を持たずに民間(民衆、大衆)に浸透していきました。大通融観によって宗派としての形を整えたのは江戸時代になってからです。
民間仏教の幕開けです。この体系をより発展させたのが、浄土宗の法然です。鎌倉仏教の特色は一遍上人以外は比叡山で修行の途中で下山して
民衆の中に入っていき、念仏の実践でのご利益を説いてている点です。ここらあたりから、葬式というともらう、概念が少しづつですが誕生していきます。
この思想は「絶対他力の本願」をうむ要因にもなりました。
次回は法然上人です。
顕空 南無大師遍照金剛 合掌礼賛。
コメント