全国の皆さん こんいちは!!
大寒波到来です。大雪です。
PCが昨日は故障でした。PCまで寒さで固まりました。原因ふめいです。
自然災害は逃げれませんので、上手く付き合うしかないです。先日東京に行きましたが
余震があり、不気味でした。富士山が噴火したらどうなるのか、、、、、。
今回は徳川家康とゆかり深いお寺四寺のご紹介です。
250年以上続く天下泰平の礎をきずいた武将、徳川家康。強運を呼び込み、天下人となり(征夷代将軍となり武家の棟梁)ました。精神面では「仏神を忘れず、心を磨くことをおろそかにしてはいけない」を幼少より学んでおり、遺訓にもなってます。彼の人生は振り返ると、遅咲きにして、人生は決して順風満帆だったわけでは在りません。8歳から12年間は今川家の人質時代です。この間、桶狭間で今川が敗れると家康は意気消沈して、(当時19歳で本名は松平元康)先祖松平家の菩提寺である①大樹寺で自害をするため行きました住職の登誉上人が「穢れた現世を離れ、極楽浄土を願う」というお経を教えて、思いとどまらせました。乱世を平定し。平和な世を築こうと願った家康はこの文言を戦旗に染めてます。登誉上人は法話を家康にしたさいに、快慶作とされる、阿弥陀如来像を渡してます。家康はこれを本尊とし、出陣の祭は必ず携えてます。②人質時代をすごした、家康の根本となった今川家の菩提寺 臨在寺です。家康は人質時代に忍耐と信心を学んでます。関が原の天下分け目の戦も臨済宗の僧・三要元信に合戦の日取りを占わせてます。天下統一後も71歳から始めた、日課念仏を毎日唱え、信仰心を維持してました。③家康は「葬儀は増上寺で位牌は大樹寺に、遺体は久能山へと遺訓してます。」江戸入城後は増上寺を取り立てました。そして④は日光東照宮で神となり、関八州の守護となりました。家康の信心深さ、バランス感覚がにじみ出てます。戦国時代随一の強運の持ち主にあやかり、今の不透明な、不安定な時代を生き抜きましょう。家康は50代から世に出てます。それまでは2番手3番手でした。策謀や忍者(服部半蔵9を使い、裏の面もありますが、それだけでは天下は取れません。織田信長の天下武布を持ってしても、天下は取れませんでした。
強運も大切な要素で、強運を引き寄せるには、信仰だったのかもしれません。
顕空。 南無阿弥陀仏(家康を尊して) 合掌。
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