全国の皆様 こんにちは!!
暖かい日曜日でした。私は、昨日はダウンしておりました。蓄積疲労です。
抜歯でやはり体調の悪さにくわえて、響きました。
健康1番、元気1番ですね。
さて、お墓に対しての、日本人の価値観の変遷です。
日本のお墓の歴史を簡単に見ると「日本書紀」身寄れば、「墓」と言う言葉は7世紀にはすでにあり、王以上の墓は広さ九尺四方、外回りは九尋四方、高さは五尋、とかかれてます。一尋は両手を広げた時の両手先の間の距離ことだから、1.5〜1.8メートルと言うことになり、かなり大きなものでした。その一方で、一般庶民の埋葬の仕方については「土に納める」とかかれてるのみです。日本書紀の成立の頃には古墳はすでに作られなくなっており、あたかも古墳のような王族の大きな墓と、土の納める、つまり、埋葬するだけの庶民の墓とのあり方には、圧倒的格差があったことを物語ってます。平安時代後期になると、日本のこの後八百年余りに渡って主流をしめた「五輪塔」が登場します。真言宗の開祖、空海から三百年の時を経て、中興の祖といわれた覚鑁上人こそが、この五輪塔が普及するきっかけとなった「五輪九字明秘密釈」の筆者でした。五輪塔は下から四角・丸・三角・半丸・上の尖った丸を積み上げた、形に作られる。この石塔の形は、密教で説く万物の構成要素「地・水・火・風・空」の五大をかたどっている。これは人間も死ねば森羅万象(宇宙に存在する総てのもの)、同じ、地・水・火・風・空の五大にかえすべきものと言う真言密教の考え方を象徴してます。さらにその形に「死後の即身成仏」思想がこめられたものでした。源信の「往生要集」以降広まった浄土思想では、往生については説かれていたものの、墓の事は説かれてなく覚鑁によって、真言念仏、真言密教が再編され、五輪塔が登場したことでそれまで、「目印」に過ぎないとされていたお墓がその意味、考え方、建墓の仕方さらには追善供養の意味とが確立されました。ごく一般の庶民までもがお墓を建て始めたのは江戸時代中期と考えられ、この頃の墓所形態を受け継いでいるのが、今日のお墓の大多数を占めている「和型三段墓」と呼ばれるものです。江戸幕府の宗教政策によって檀家制度が確立され、それまでの田畑の隅や山の麓に作られてきた墓が寺院の境内に作られるようになる。現在もなじみ深い形のこの墓は、寺院の奨励も合って日本中に浸透したといえる。墓石は上の竿石からそれぞれ、天(家庭円満)人(人望、出世)、地(財産維持)を現しており、モデルは仏舎利塔を起源とする、このすっきりと洗練された形の和型墓石は約400年にわたって最も多く建てられ、今日にたってます。
さて次回は、葬式と仏教との融合です。
顕空。 合掌。
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