皆さん こんにちは!!
平泉の世界遺産おめでとう御座います。
これも仏縁でしょうか、、、。
震災の地でありながら、小笠原諸島(父島、母島、兄、妹島、、)より1日遅れでしたが、平泉が世界遺産となり
勇気づけられたと思います。なぜ仏縁かと申しますと。
平安時代は末法(仏の教えが届かない)で、西日本は平家、関東は源氏、東北は藤原氏によって、群雄割拠でした。
藤原氏は浄土を信仰し、極楽を金色堂で表現しました。親鸞が新潟に流刑後、広く東北で信仰のため、当時の百姓さんと、共に田植えをしながら、布教しました。
法然は仏教の改革をしました。庶民信仰で題目「南無阿弥陀仏」を唱えれば、極楽に庶民もいけると、これに賛同して、弟子入りしたのが、親鸞です。そして親鸞は、確信します。ついていこう!!。
親鸞がなぜいまだに、ファンが多く、信仰されているかは、悪人正機説をとき、歎異抄がいまだに読まれて、愛読書にしてる方が多くいます。さて、親鸞ですが比叡山で修行をしてますが、人間の煩悩(愛欲)と末法思想に、悩み苦しみ、29歳の時に、比叡山を下山せず、今で言う、家出みたいにして、下山してます。そして洛中の聖徳太子が救世観音を供養するために創建された六角堂頂法事に参篭しました。そして95日目の仏暁、聖徳太子の夢告(むこく)があり、迷いが去った親鸞は東山吉水に禅房を開いていた、法然上人の元に訪れて、不退転の決意で弟子入りをしました。法然に帰敬しました。信仰表白をしてます。その後の親鸞の人生は極楽浄土に往生することの工夫、法然の教えを実践することに捧げられました。恐らく、親鸞は、今で言う、大変、生身で人間臭く、
庶民的だったと思います。法然と共に革新的仏教の実践布教ですから、その教団には幕府は統治の上で困り、後鳥羽上皇により1207年に法然は四国、親鸞は越後に流罪で僧籍剥奪、俗名を賜い、僧でも俗でもない禿を姓として愚禿親鸞となりました。
禿とは肉食妻帯の戒めを守らない名前だけの僧のことを言います。禿の上に愚を重ねて名乗った親鸞は、自信をふくめて末法の世に迷い生きる人々を「煩悩具足の凡夫」「罪業深重の凡夫」と呼び、人は煩悩にまみれた罪深い凡夫なのだという、自覚認識が親鸞の教えの本質です。親鸞は何が凄いかは、公然と妻を妻帯した第1号です。その後の、日本のお坊さんの妻帯家族のモデルを作りました。
親鸞の教えで有名な「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」です。親鸞が言う悪人は、末法時に生まれたがゆえの、「宿業」によよって、不可避的に悪人である。阿弥陀如来は、往生を願う総ての人を救済するとと誓願を立てた。これを本願と呼ぶ、阿弥陀の本願に世手羽、極楽往生できぬものはいない。自身は凡夫である、愚かであると自覚すればこそ阿弥陀の救済の力に総てをゆだねる「絶対他力」にたれるのだ、、、。親鸞は仏教を庶民に身近に近づけて、救済を願いました、同時に、自身も煩悩に悩み、苦労して、解脱して、あえて、妻帯者となりました。当時では此の考えは、大変だったことでしょう。欲望の間々生きてた時代もありますが、かえって、親近感を感じるのでしょう。
平泉はそうした、極楽浄土のテーマパークで、それはありがたい光景だったでしょう。
今から800年前です。どちらかといえば、親鸞は苦しみながらも、煩悩と戦わず、上手く取り入れていきました。
いかがでしたか、、、。人間である以上は欲望、煩悩は離れませんが迷いましたら。初心の第一心を思い浮かべてみてください。
顕空。南無阿弥陀仏。合掌。
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