全国のの皆さん こんにちは!!
政治は立候補が決まりましたが、谷垣氏は断念です。3党合意は何だったんでしょうか、、、。?
野田さんの勝ちですね。政治は明日がわかりません。自民、民主、誰が党首になり、解散があるなら、総理は誰になるかです。
暑いです。
明日は、忘れてはいけない日です。9.11です。もう2年です。震災にあわれた方は再建、回復したでしょうか、、、。精神面で元気でしょうか、、、。
原発事故はいまだ解決されてません。今も事故は継続です。福島の人口が137万人も減ったそうです。国は総力を挙げて再建すといいましたが
現在はよくなってるのでしょうか。復興財源19兆円はまともに使われたのか、、、。日本は災害列島です。いつわが身に降りかかるかわかりません。
震災にあわれた方の再興と健康と幸福を祈願します。
さて、浄土真宗・親鸞の後編です。親鸞はどのような人物だったのでしょうか。「非僧・非俗」にして、あらゆる「自力」をステ、阿弥陀仏の本願力によって救われる!!さらには、法然の念仏も唱えるだけではだめで、信仰して、さらに「信心・仏を信じる」という信心が大切と説いてます。
法然の教えをさらに進めた親鸞(1173〜1262)は、中下級官職の皇太后宮大進だった日野有範の子として生まれました。九歳で比叡山に上り慈円のもとで出家し、二十年間の修行を積むが天台教学に疑問を抱くようになり、下山して法然の門に入りました。比叡山を下った親鸞は京都の六角堂に参詣し、救世観音の夢告をうける。「女犯の夢告」だったといわれてます。下山後に体験した不思議なことでした。法然の専修念仏・口称念仏では、救われるには阿弥陀如来の誓願(四十八の誓願)を信じてることが前提にならなければならなかった。そうでなければ、それは「空念仏」に過ぎないとされました。この点を強く意識したのが親鸞でした。親鸞の比叡山での修行時代の細かなことは事情は不明ですが29歳の時、比叡山を下りて法然の門に入ったことは事実で、その理由について、親鸞は「顕浄土真実教行文類」に「雑業を棄てて本願に帰す」というものでした。つまり念仏以外の諸行を修めて、極楽往生を願うことをやめて、阿弥陀仏の誓願だけを信じて念仏往生するのだ、という大きな決意でした。しかしながら、南都(奈良)北領(比叡山)の旧仏教勢力からは目の敵にされて、後鳥羽院の弾圧にあって、中心人物はことごとく死罪、または流罪となりました。親鸞は越後に流されて、その際名前まで変えさせられてます。(俗名・藤井善信)このときの親鸞の怒りはすさまじく。「非僧・非俗」を宣言します。此処当時はすでに妻子もち俗人としての在家法師、在家僧は多くいました。なぜそうなったかは大化改新以後平安時代まで行われた中央集権の律令制による政治体制もも時代だ下がるにしたがい、規律も乱れもぐりのそうである私度僧、つまり在家法師、在家僧が租税を逃れるために大量に生まれていた時代が親鸞の時代でした。越後での親鸞は当時の正式な僧としては大胆な行動に出ます。妻帯したのです。戒を破ったのです。相手は豪族三好為教の娘、恵信尼でこの女性が生涯の伴侶となります。(法然に相談したら、好きにせよ、といわれてます)流罪から4年目に罪は赦されるが、その後3年ほど越後にとどまり7年目に群馬を経て関東に移り20年ほどの布教活動を行い、62歳のときに、親鸞は突然、京に上る。関東の門徒達からの神格化されることを嫌いました。京都五条・西洞院に移り済みますが、極度の貧困になり、妻は実家に帰り、火災にあうなど、不幸の連続でした。しかし不撓不屈の精神で、信仰と教科に専念して「三帖和讃」なども完成させて、90歳の時娘や息子、や門弟達に看取られて大往生を遂げました。親鸞没後に弟子の唯円によってまとめられた「歎異抄」には「ただ念仏して弥陀にたすけまひらすべしと、よき人の仰を破りて信ずるほかに、別の子細なきなり」とその思想の基本は、念仏と阿弥陀如来の誓願を信じることににあることをめいかくにしました。そして、ついには「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と悪人こそ救済の正機(仏のの救済を受ける素質があること)であるべきとするまでに至りました。さらに「衆生の救済は阿弥陀仏の計らいにまかされるものであり、衆生のほうからのはからいは不用なものだ」という「自然法爾」の境地まで到達していきます。親鸞が開いた浄土真宗の念仏は「信じることが第1としました、そのため「信心念仏」といわれてます。悪人正機説の誕生です。煩悩の多い衆生(悪人)を救うことが阿弥陀如来の本願とときました。
お寺は、西本願寺(お西さん)と呼ばれ、豊臣秀吉により庇護され建立されてます(桃山時代の桃山文化)。東本願寺は徳川家康により庇護されてます(お東さん)と呼ばれ、それぞれに宗主がおります。
次回は時宗の一遍です。
顕空 南無大師遍照金剛 合掌礼拝
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