全国の皆さん こんにちは!!
だんだんと、地上の虫の鳴き声が大きくなってきました。
最近まで、空中を飛ぶ、蝉の鳴き声が木々から聞こえてきました。不思議で、秋になると、鳴き声が地上になります。
子供の頃は夕焼けと同時に、蝙蝠が飛んだり、トンボも飛んだりと、よく空を見てました。年齢を重ねるとだんだん、地面ばかり見てるようです。
松下金融相の自殺には驚きました。外為スワップとか日本の金融状況、赤字国債の未発行による、資金繰りとかで、精神的に辛かったのでしょうか、、?
自殺が日本は年間32000人で自ら命を絶つことは、深い心の影があります。自己否定、うつ、絶望、、、、。状況はそれぞれですが、宗教は元来の役割として、命の救済なんですが、この世から一つの命が自ら絶つことは、いかに隣人の心の奥底にある、絶望感などを、直視しないといけないですね。反省の日々です。
東北の震災に会われて絶命された方々も含めて、今此処で、幸せの本質を改めて考えてみることも大切かもしれません。現世利益は本来が生きてるだけでもけものという発想です。地位、名誉、名声、財産、、、と自慢するものがなくても、幸せであると事を感じないといけないのかもしれません。日本で1日3色食べることになったのは、明治以降でそれまでは2食+間食(3時のおやつ)でした。毎日3食食べれることに感謝です。
さて、鎌倉仏教の浄土教のアンカーは時宗・一遍であります。1239年〜1289年です。一遍が行き着いた思想は親鸞の思想を超えてもっと簡単に救済されることを民衆に説き、実践していきます。それは「信心すら関係なく、南無阿弥陀仏の6文字に救済する力があると、布教していきました。念仏宗のゴールです。」
民衆に念仏往生を勧めるために生涯を遊行のたびにささげました。
踊り念仏(盆踊りの原型とも言われてますし、これが明治維新前夜、全国でええじゃないか踊りが流行り、全国で3日3晩踊ったそうです)
捨て聖・一遍は愛媛県は道後の河野通広のことして生まれ、祖父の代から鎌倉幕府の実力者の家系でしたが、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して兵を挙げた承久の変(1221年)で朝廷側につき、敗れたために、没落した家柄でした。10歳で出家した一遍は、13歳で大宰府の法然の孫弟子に当たる聖達の弟子となり、浄土教の信仰を骨の髄までしみこませました。そして十数年の修行を経て「阿弥陀仏の悟りと衆生の救済とは同時のもので、このことを可能にするのは「南無阿弥陀仏」に名号である」という悟りを得てます。この後、一遍は衣・食・住のことはもちろん、郷里も家族もすべてを捨て去り、一所不在の遊行生活を送ります。まるで釈迦と同じ行動原理です。在家にとどまらず、すべてをなげうち教えを説きながら諸国を遍歴しました。そして布教の方法は小さな紙片に「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」ときした札を配り歩くものでした。この札を賦算札といい「熊野権現の神勅に基づき配布」とあります。六十万人という意味は、当時の日本の総人口という意味もありました。(実際は500~600万人のようです。岩手県江刺〜鹿児島の大隈まで生涯、遊行を続けるうちに南無阿弥陀仏の名号を唱えながら踊る「踊り念仏」が生まれました。一遍は51歳で亡くなりましたが死ぬまで私財は何一つ身につけず、すべてを捨て続けたので「捨聖」とも呼ばれ、辞世の句は「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏と成り果てぬ」を残し、所持していた書物も焼き捨てたといわれてます。法然・親鸞・一遍と続く、末法という危機の時代に現れた「念仏布教」の系譜の中で、法然は悟りにいたるいくつかの方法の中で、特に「念仏」を選び取り、親鸞は阿弥陀仏への信心が起きた時点で人はすでに救われるとときました。一遍は「南無阿弥陀仏」という名号そのもに絶対的な力があるので救われるのだと、としたのです。悟りに至るには色々な経路があり、方法があることを伝えてくれてます。
浄土教は良忍から一遍までで完結していきますが、不思議なもので、他力本願でなく自力本願が仏と一体となれるという禅宗と南妙法蓮華経の日蓮宗が出てきます。煩悩と悟りという大海に浮かぶ、いかだ、のごとく、その人に合った仏法を仏さまは用意してくれてます。次回は日蓮宗をUPします。
12日〜15日まで、目の手術でお休みします。
顕空 南無阿弥陀仏 南無大師遍照金剛 合掌礼賛
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